狩野芳崖の展覧会以来の市立美術館です。
「ふく爺」70歳以上につき観覧料無料。教養を高める術を享受すべく
利用回数を増さねば‼
≪高島北海展の概要は2月4日ブログ参照≫
≪下関市立美術館/正面・・下関市長府黒門東町1-1≫
≪長門峡・真景図、長門峡金郷渓口望籠峰≫
山口県の名勝開発・・郷里萩を流れる阿武川上流の渓谷を探勝。
地質学的にも貴重な景観に動かされ開発に乗り出す。
北海が命名、名称「ちょうもんきょう・長門峡」とした。
開発資金捻出のため、北海は一幅百円の百画会を企画。
この画会は当初の計画をこえて百六十幅を数え、得た資金を長門峡に
通じる探勝道路建設に寄贈する。
又、桜樹1000本寄贈も。
≪石柱渓閑山漠側面他・青海島島見門図≫
石柱渓、青海島(おおみしま・・長門市)ともに、北海が見出した景勝地です
☆余談・・お金にまつわる年譜
元治2年/1865年 16歳 萩明倫館に入学、この年から3年間乃木希助と
同窓
明治5年/1872年 23歳 工部省鉱山寮十四等出仕技術心得・三年間
生野銀山で技師長フランス人コワニエに地質学を学ぶ。
明治11年 29歳 「山口県地質分布図」「山口県地質図説」地理局
雇となり、月給一〇円測量課に配属。
明治14年 32歳 農商務傭から御用掛となる月俸二五円。官有林
調査の為長崎、福岡、大分、熊本、鹿児島巡回
明治18年 36歳 フランス.ナンシ-森林高等学校へ満3年間留学
を命じられる。手当として1年につき銀貨一千円支給。
明治21年 39歳 ナンシ-森林高等学校卒業。林学士の免状を受ける
帰国後、農商務技師試補に、年俸九〇〇円 山林局勤務
明治22年 40歳 欧州派遣手当月八〇円、パリ万博視察
明治25年 43歳 正七位に叙される。特別の勤労につき四〇円下賜
多年の植物帯調査励精につき金一〇〇円賞与される
明治30年 48歳 長府に隠棲する
明治32年 51歳 山口県豊浦中学校(現豊浦高等学校)図画科教授を
嘱託される手当年三〇〇円 翌年辞職
明治35年 53歳 上京、本格的に画業に。
明治41年~大正6年〓文部省美術審査委員会委員就任
以下略
当時との貨幣価値が解らないが、俸給から推測しても大人物、偉大な人であった
と驚きです。
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